3/30/2012

変わるものと変わらないもの



イスラエルの彫刻家ダニ・カラヴァン氏は、とあるインタヴューでこんなことを語っています。


I still have my doubts. I cannot understand how during the Nazi occupation,
artists sat in the south of France, under Vichy control, and painted such beautiful and tranquil landscapes.
(Hava Karavan, An interview with Dani, Paris, 1997.)


ナチスの侵略を受け、ヴィシー政権下に置かれたフランス(1940-1944)で、
南仏に身を置いた作家たちはなぜこれほどまでに美しく静かな風景を描くことができたのか。


この問いを投げかけた彼の頭には、晩年ニースに暮らしたマティス、
そしてル・カネに移り住んだボナールの作品が浮かんでいたことと思います。


ボナールの研究書をいくつか読むと、
南仏の明るい光に魅せられてル・カネに移り住み.....
という説明を幾度となく目にします。


しかし、第二次世界大戦が起こらなければ、
彼が長年画家として活動してきたパリを完全に離れて、
南仏の地に腰を据えることはなったでしょう。
ボナールがパリ近郊のVernonに持っていた家を売り、ル・カネに移り住んだのは1939年。
再びパリに降り立ったのは、終戦後の1945年7月でした。


どんな経緯があったにせよ、ボナールが晩年の5年間ル・カネに定住し、
そこで類い稀な風景画と裸婦像を多く制作したこともまた事実。


ル・カネという地を抜きにして、ボナールの作品は理解できません。
そんな場所を訪れることができたのは本当に幸いでした。




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ところで今回泊まったホテルはPark&Suites
本当はスタンダードの部屋を予約していたんですが、
受付のお姉さんと話しているうちに、今はお客さんもほとんどいないからと
眺めの良いスイートルームに変更してくれました。


テラスからは、ル・カネの家並みが一望できます。
大きなベッド、バスルームには夢にまで見た浴槽....3日間たっぷり満喫しました。




市役所の隣にオープンしたボナール美術館が今では街の中心になっています。
ボナールが暮らした時代から存在していたホテルを改築した建物。
展示室も小さめで、まだまだ収蔵作品の点数も少ないですが、
年配の夫婦や子どもたちもたくさん見に来ていて、
地元の人に愛されている美術館であることが伝わってきました。



こちらはボナール美術館の後方に建つ、学芸員の方々のオフィス。
別荘みたいですよね...。こんなところで働けるなんて本当にうらやましい。
作品はあまりないからと、資料やカタログを快く提供してくださいました。



ル・カネは猫の街。あちこちで気ままにくつろぐノラ猫たち。



パステルカラーの素朴な家々も南仏らしい佇まい。










思わずノックしてみたくなります。


美術館の裏手の坂と階段をぐんぐん登ると、ボナールの散歩道に出ます。
昔は水路が流れていたようですが、今は埋め立てられて山の小道になっています。


 

ボナールの絵にも描かれた小さな家。そのままの姿でまだ残っているなんて...。




あちこち見回しながら山道を歩いていると、美しい草木のトンネルに出会いました。
光と影が織りなす緑色のグラデーションが開く幻のような空間。



地面に落ちる光の斑点。ボナールが風景画で黄色やオレンジ色の上に重ねる白は、
きっとこの光の感覚なんだろうと実感することができました。


ル・カネからは、カンヌの街も見渡すことができます。



そしてボナールと妻マルトが暮らした家 Le Bosquet[茂み] もそのまま残っています。
ボナールは自分が買って棲んだ家にそれぞれ名前を付けていました。
ご遺族の意向により門は固く閉ざされていますが、
室内は画家が暮らした状態のまま保存されているそうです。


ばら色の壁、庭に生い茂る樹々、門へと続く階段....。
この家では、室内画や、水浴するマルトの裸婦像、
バルコニーからル・カネの街を俯瞰した風景画が何点も制作されました。



Le Bosquetへと通じる階段を描いたこの眩い作品は、ポーラ美術館蔵です。




ボナールの家から少し坂道を下ると、遠方に広がるエストレル山脈や家々と、
視界を覆う樹々とのコントラストが生み出す不思議な距離感に戸惑います。




そして街のあちこちで、サクラやミモザの花が咲き乱れていました。


 


ひまわりがゴッホの花なら、ミモザは紛れもなくボナールの花です。







ボナールが描いたいくつかの風景の前には、こんなパネルが立っていました。
今はまだ6 箇所くらいですが、きっとこれからどんどん増えていくことでしょう。



 高台の上のベンチに座って、夕暮れ時の色彩の移ろいを心ゆくまで眺めていました。



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1942年にはイタリア軍、1943年にはドイツ軍の統制下に置かれ、
レジスタンス活動も展開されていたカンヌ。


戦争の騒乱と不条理をすぐ側に感じながら、ボナールはなぜル・カネの風景を、
世界の光や奥行きだけを描き続けることができたのか。


1946年、亡くなる直前のボナールはこんな言葉を書き付けています。

J'espère que ma peinture tiendra, sans craquelures.
Je voudrais arriver devant les jeunes peintres de l'an 2000 avec des ailes de papillon.


私の絵画がひび割れることなく保存されることを願う。
私は蝶の羽根で2000年の若き画家たちの前にたどり着きたい。




この言葉は、2005年のパリ市立美術館でのボナール回顧展の会場で、
一番最後の壁面に刻まれていました。
100点近くのボナールの作品を見終えて靄に包まれたような身体に、
たった2行に凝縮された画家の切望がずしりと響いたことを今でも覚えています。


世の中を揺るがすような出来事が起こったとき、
いち早くそれに反応を示す作家の作品は私たちに考え行動する力を与えてくれます。
でも、どんな事態に直面しても変わらないという姿勢にもまた、
ひと筋の信念を見出すことができるのではないでしょうか。


画家ボナールにとって、
自分の目の前にひろがる世界と向き合い、
カンヴァスに絵筆のタッチを黙々と重ね続けるという行為は、
たとえどれほどの遠回りであっても、
未来へと繋がっていたのだと思います。

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